2020-05-14 第201回国会 参議院 財政金融委員会 第12号
○国務大臣(麻生太郎君) これはもう長い歴史のある話なので、池田内閣時代でしたかね、池田勇人大蔵大臣の時代からこの話は出たんだと記憶しますけれども。
○国務大臣(麻生太郎君) これはもう長い歴史のある話なので、池田内閣時代でしたかね、池田勇人大蔵大臣の時代からこの話は出たんだと記憶しますけれども。
小学生のころ、普及し始めたテレビで、池田勇人首相が所得倍増論をひっ提げて論陣を張っている姿を見て、政治家を志すようになりました。地盤、看板、かばんもなく、徒手空拳で選挙に臨み、苦労を重ねながら今日に至ることができましたこと、まことに感無量であります。
○安倍内閣総理大臣 成長と分配というテーマでございますが、岸田政調会長が会長を務めておられる宏池会の元祖である池田勇人氏のときに、成長が先か分配が先か、下村・都留論争というのがありました。我々は、そういう論争に終止符を打つ思いで、成長と分配の好循環という話をさせていただいているわけであります。
そうすると、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三、六人いるんですね。大関になって二場所続けて優勝すると横綱になりますよね。ですから、総理大臣になった段階で大関になった、そう考えれば、まさに今、安倍晋三さん、安倍晋三総理は横綱ですよ。
昔、教科書を買っていたときに、昭和三十八年、我が党の参議院議員柏原ヤスさん、もともと学校の先生が、池田勇人総理に訴えて、国会で答弁をとり、それから大きな流れとなって、教科書は無料化になりました。 このSDGsも、一丁目一番地は貧困の撲滅、飢餓の撲滅なんですよ。今、日本は、民間の統計では、この二十年間、子供の貧困率は倍増です。
まさに、私の祖母が池田内閣で厚生大臣を命ぜられたとき、あの当時は、本当に、祖母は、母子家庭に対して手を差し伸べなきゃいけないということを池田勇人総理に進言をさせていただいたというふうに記憶しております。
私は昭和三十二年生まれなんですけれども、その前年の昭和三十一年から日本は既にこの南極観測を始めていたということで、池田勇人総理がもはや戦後ではないと言ったこの頃から、もう日本は既に南極という未踏の地にこの研究開発を進めていたんだなということは、本当に、日本はやはりこの技術立国、科学技術立国ということを意識をしながらこの戦後の歩みを来たんだなということも実感をしております。
それは多分、側近の池田勇人さんも連れていっていたんだけれども、この条約については自分で責任を負うしかないと、はっきり言えないけれども、そういうことだったと思うんですね。 だから、その意味で、我々、対日防衛コミットメントというのはその後十年かかるわけですね、取り付けるのに。一九六〇年の、岸信介総理によって安保改定がなされる、そのことによって初めて取り付けることができた。
○安倍内閣総理大臣 かつてこれは、池田勇人政権時代、高度経済成長を進めるときにも、成長が先かあるいは分配が先かという論争があったんですね。我々の政権においては、この論争に終止符を打ち、成長と分配の好循環を回していくということを政策の中心に据えたわけであります。
コストが安くて集めやすいという話で思い出しましたけれども、一九六二年ですかね、池田勇人総理大臣が、トランジスタのセールスマンと言われましたけれども、ヨーロッパ、あのときはまだOECDですかね、ずっと回ったんです。たまたま私の父親がそのとき新聞記者で一緒についていったのでよく記憶にあるんですが。
私も、物心つき、いろいろな不況とかそういうことも幼いころ経験をしたり、そしてまた、小学校、中学校へ行くときには、ズボンに継ぎを当てたり兄貴のお古を着たり、そういうような時代も暮らしてきましたけれども、しかし、池田勇人さんじゃありませんけれども、所得倍増論ということで、高度経済成長というのか、本当に物心ついてずっと高度経済成長がおかげさまで続いてきた、こう思います。
昭和三十五年、岸信介総理から政権を引き継いだ池田勇人総理が、みずからの政治姿勢として寛容と忍耐という内閣のスローガンを提唱した際、それが低姿勢と受け取られ、責任ある政権の姿として疑問が指摘された、こういったことがありました。
ところが、安倍総理のおじいさんの岸内閣のときの、それからその後の総理大臣、池田勇人さんとか、いわゆる所得倍増論、これ十年間の計画だったんですが、七年間で計画が達成できたんです。これはなぜかといったら、やっぱり常磐線であるいは東北線で田舎からいろんな働き手が来た、そのために、農家が父ちゃんがいなくなって三ちゃん農家と言われるようになったんです。
それから、この現行法律ができたのは昭和四十六年といいますと、本当に、今ありましたが、高度成長時代、昭和三十年代に、池田勇人総理大臣が、貧乏人は麦を食えと言って国民を怒らせ、あるいは所得を倍増すると国民を鼓舞させて高度成長に入った。それで、そのおかげ、どうしたかというと、その弊害は農村地域に出たんですね。 三ちゃん農業ってあったけど、失礼なことを聞きますが、記憶にございますか、局長。
一九六〇年、池田勇人首相が所得倍増計画というのを立ち上げて、働いて収入を得て貯蓄をして、教育費も住宅費も老後資金も賄う、そういう勤労国家を目指してつくっていったと私は認識しています。 ところが、世帯所得というのは一九九六年をピークにこの二十年で二割下がっている。そんな中で所得が伸びず貯蓄ができなくなると、この前、質問のときに言いましたけれども、一気に将来不安が広がったわけです。
九月十日付の新聞で、池田勇人さんを抜かれて千三百五十四日になられたということで、それから四十二日たちますので、数え間違えでなければ、きょうで千三百九十六日ということで、長ければいいというものじゃないというコメントを出されたそうで、これも麻生大臣らしいなというふうにも思うわけでございますけれども、しかしながら、派閥会長の、あるいは領袖ということで三十六名の方を率いて御尽力いただいております。
ソビエト連邦の核の傘に近接していた日本をアメリカの核の傘で守ることが戦後の日本の経済成長にまで実はつながっていること、すなわち、サラリーマンがアタッシュケース一つで、南米に行こうがヨーロッパへ行こうがアフリカへ行こうが北米に行こうが、どこへ行っても安心して日本ですと言ってビジネス展開ができて、それこそ、宏池会の大先輩、私たちの自民党の大先輩であります池田勇人総裁時代に所得倍増計画といった高度成長期を
これは、昭和三十八年三月十三日、我が党の参議院議員柏原ヤスさんが、本会議で当時の池田勇人総理大臣に教科書無料配付の完全実施を迫り、決断していただきました。その日の夕刊各紙のトップ一面です。読売新聞は、三月十三日の夕刊にこう書いています。昭和四十一年度には教科書無料配付完全実施、首相、教科書無料配付で公明柏原議員に答弁。 それから始まったことなんですね。
かつて、昭和二十七年の十一月、当時の池田勇人通産大臣が国会で答弁をされて、中小企業の倒産、自殺はやむを得ない、こういう答弁をされたことをもって国会で大臣の不信任決議案が可決されて、二日後に辞任に追い込まれています。 軽減税率の導入で混乱は起きる、中小零細の潰れるケースが一つや二つ、百や千は起きる、こんなことを答弁されている。これは到底納得しがたい答弁だと思います。
そして区切りを付けて、経済の問題をやるときは、池田勇人内閣が所得倍増計画でまさにイメージを変えてスタートをされたわけであります。 ですから、総理、これは、まだ平和主義、憲法改正の問題というのは終わっていないんです。そして、前川さんが本会議の代表質問でもお話しになられましたけれども、立場は違うけれども、この問題、集団的自衛権の行使を言うのであれば憲法改正しかないのではないかと。